日本の文化や風習には色々としきたりや作法があります。
仏像拝観でお堂に入る時は脱帽するといった所作であったり、神社に参る時の「二礼二拍手一礼」といった作法であったり、暦や物の名前や数え方などの知識であったり、挨拶や話し方などの礼儀であったり様々な決まり事で緩く縛られています。
それは他人から強制されることでもなければ、他人に強制できることでもありません。
知っているとしなやかな印象で、知らないと白い目に晒されるか笑われる程度で済む話です。
僕は自称見仏人なので、もちろん日本の文化や伝統を敬愛していますが、専門に研究しているわけではないので、しきたりや作法を知らずに恥をかくという場面はしょっちゅうです。
しきたりや作法を理解した上で伝統を打ち破ることの出来る人が、次世代の文化や芸術を産み出して行くんでしょうね。
そしてそれがまた次の伝統になって、打ち破られての繰り返し。
僕の場合はただ無知な無作法者なので、次世代の文化を産み出すどころか恥の上塗りを更に重ね塗りしてるようなもんです。
なんのことかというとブログタイトルのとおり『てぬぐい』の話です。
てぬぐいは定番のソトバタイジング(←お寺のお土産の意←一人で盛り上げてます)でもあります。
モチーフも縁起物、ご当地、風物詩、キャラクターなどなど多彩。
デザインもタペストリーのような大きな柄から模様のように小さい柄など表現も多様で、『てぬぐいはただ手を拭う為にあるモノではなく、アートの表現手段でもあるのです』
アートの表現手段という自由自在な空間の中にあっても、そこはやはり日本の「てぬぐい」サイズや染め方(注染)といった決まり事はしっかりと守られています。
※注染という技法は明治からの新しい技法だそうですが、注染によって表現が多様化し、てぬぐいもデザインされるようになったようです。
使用方法にも決まり事がありました。
「てぬぐいは端の始末はしない!」
です。
実は僕はこれを知らなくて奈良にある「てぬぐい専門店」でガチガチに端を縫った手ぬぐいを披露して少々恥ずかしい思いをしました。
以前、やんわりと教えてくれた人がいるんですけどね・・
なにしろ「無作法なモノですから」
僕に「てぬぐいは端の始末はしないもの」と教えてくれた人は、しきたりや作法の類いは「強要することじゃない」とわきまえた、しなやかな教養人だったので、無知な僕に対しても「それも良いんじゃない?」と肯定的でした。
そして手のひらを返すかのように「てぬぐいの端の始末はしない!派」へ、さっさと宗旨替えした僕に、慰めと励ましの言葉と共に贈り物が届きました。
恵比寿鯨
釣り名人の福徳財宝の神、恵比寿神が特大の鯨を釣り上げた!みたいな、めでたさの「アート縁起てぬぐい」というジャンルにします。
蛙語呂合わせ
カエルは僕モチーフってことですね。ぐうたら風味可愛いガマカエルの語呂合わせは「キャラ縁起てぬぐい」ですね。
ゴチャゴチャ長々と書いたけど、結局これが言いたい
「素敵な手ぬぐいをありがとう。」