空也上人
空也上人は醍醐天皇の次男として生まれるが922年ごろ出家し、「空也(くうや)」と名乗った。
寺には入らず諸国を廻りながら修行し、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら道路や橋を造りるなど社会貢献に励み、民間における浄土教の先駆者、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)の祖とされる。
また当時、京都で流行した疫病を退散させるため、空也上人は自ら刻んだ十一面観音菩薩をと共に市中廻り、病人がいると身分の差を問わず、仏前に供えた梅干と昆布を入れたお茶を病人に与え、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて病魔を鎮めたという。
天暦5年(951年)には堂を建て、この十一面観音像を祀ったとされ、これが六波羅蜜寺の始まりとされる。
このように身分を問わず施しを行い、社会貢献をし、常に市民の中に入り伝道に励んでいたことから、空也上人は阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)と呼ばれ尊敬され、念仏を唱える口からは六体の阿弥陀仏が現れたという伝説がある。
空也上人が貴船の山に篭って修行していた頃の話。
毎晩、空也上人に親しく近寄ってくる鹿がいました。
空也上人はこの鹿がやってくるのを毎日のように楽しみにし、いつの頃か友達のように思うようになりました。
ところが、ある日からその鹿がさっぱり姿を見せないので、空也上人は心配になり尋ね歩いていると、手に鹿の角と皮を持った男に出会いました。
すっかり姿を変えたこの鹿こそ空也上人が友のように愛し、探し求めていた鹿だったのです。
空也上人は男にわけを話し、自分が持っていた瓢箪と鹿の角と革を交換し、男には瓢箪叩いて念仏を唱えることを勧めました。
男は生き物を殺した罪を恥じて悔い改めました。
そして空也上人の弟子になり踊り念仏を修行して広く伝えました。
空也上人は男から譲り受けた鹿の角を自分の杖の頭に付け、革で袋を作り生涯身につけて愛用したといいます。
このエピソードにある空也上人の姿は六波羅蜜寺に残る運慶の四男康勝作の「空也上人立像」によく表され、念仏を唱える口から出現したという六体の阿弥陀仏も表現されている。
空也上人は醍醐天皇の次男として生まれるが922年ごろ出家し、「空也(くうや)」と名乗った。
寺には入らず諸国を廻りながら修行し、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら道路や橋を造りるなど社会貢献に励み、民間における浄土教の先駆者、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)の祖とされる。
また当時、京都で流行した疫病を退散させるため、空也上人は自ら刻んだ十一面観音菩薩をと共に市中廻り、病人がいると身分の差を問わず、仏前に供えた梅干と昆布を入れたお茶を病人に与え、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて病魔を鎮めたという。
天暦5年(951年)には堂を建て、この十一面観音像を祀ったとされ、これが六波羅蜜寺の始まりとされる。
このように身分を問わず施しを行い、社会貢献をし、常に市民の中に入り伝道に励んでいたことから、空也上人は阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)と呼ばれ尊敬され、念仏を唱える口からは六体の阿弥陀仏が現れたという伝説がある。
空也上人が貴船の山に篭って修行していた頃の話。
毎晩、空也上人に親しく近寄ってくる鹿がいました。
空也上人はこの鹿がやってくるのを毎日のように楽しみにし、いつの頃か友達のように思うようになりました。
ところが、ある日からその鹿がさっぱり姿を見せないので、空也上人は心配になり尋ね歩いていると、手に鹿の角と皮を持った男に出会いました。
すっかり姿を変えたこの鹿こそ空也上人が友のように愛し、探し求めていた鹿だったのです。
空也上人は男にわけを話し、自分が持っていた瓢箪と鹿の角と革を交換し、男には瓢箪叩いて念仏を唱えることを勧めました。
男は生き物を殺した罪を恥じて悔い改めました。
そして空也上人の弟子になり踊り念仏を修行して広く伝えました。
空也上人は男から譲り受けた鹿の角を自分の杖の頭に付け、革で袋を作り生涯身につけて愛用したといいます。
このエピソードにある空也上人の姿は六波羅蜜寺に残る運慶の四男康勝作の「空也上人立像」によく表され、念仏を唱える口から出現したという六体の阿弥陀仏も表現されている。