見学日:2014年6月13日
尼崎市のホームページに『史跡・文化財散歩』というコーナーがあり、ブログ記事のお題「遊女塚」も史跡として紹介されています。
以下に全文引用します。
ここから〜
遊女塚は、法然上人と五人遊女の説話にゆかりの塚です。
神崎は、神崎川と淀川が奈良時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊が停泊する交通の要衝地となりました。次第に河口の港町として繁栄し、「天下第一の楽地」と呼ばれるようになります。
ここでは遊女たちが、今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわっていました。
この塚は、讃岐の国へ流される途中にこの地に立ち寄った法然 に、念仏を授けられて川に身を投げた、五人の遊女の亡骸を葬ったものと伝えられています。
塚の表面には「南無阿弥陀佛」の名号と、その両側には「阿弥陀佛 という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの春けき」と刻まれ、側面には元禄5年(1692)6月の年紀銘が刻まれ、裏面には遊女五人の名(吾妻・宮城・刈藻・ 小倉・大仁)があったといわれています。。
〜ここまで引用
遊女塚はオラが町「ケミカルタウン尼崎」らしい風景にとても馴染んでいました。
●法然上人と五人遊女の説話
浄土宗の方や法然上人ファンの間では大変有名な説法だそうで『法然上人行状絵図』という絵巻物(全四十八巻/国宝・知恩院蔵)の巻三十四にもこの場面が描かれています。
↑お坊さん(法然上人)が乗った船に近づく小舟に遊女が三人乗っているのが見えます。
■以下はネット上にある「法然上人伝記の現代語訳」を元にufodoujiが超意訳+独自解釈でまとめました。
法然上人が流罪となり船で流刑地に向かっていた時のこと、遊女を乗せた一艘の小舟が近づいてきて法然に訊ねました。
「前世の報いか色を売る身となりました。このように罪深い身ですがどうすれば地獄に堕ちず救われるでしょうか。」
法然は
「遊女を生業とするその罪はとても重く、報いも計り知れません。しかし他に生きるすべもなく、仏道を求めることも出来ないのであれば、熱心に念仏を唱えなさい。阿弥陀如来は弱く罪深い人を救うために誓願をたてられました。阿弥陀さまを信じ、卑屈にならず念仏を称えるのであれば、あなたは必ず救われます」
と答えると、遊女は涙を流して喜びました。
後日譚としては
「遊女は改心して仏門に入った」
「遊女は念仏を唱えながら入水したが、極楽浄土へ往生した」
とバリエーションがあります。
尼崎の『神崎の遊女塚説話』の原典は「秋里籬島編『摂津名所図会』巻6下 豊島郡・河辺郡(*1)」や「尼崎市の如来院の古縁起(*2)」などによるようです。
脚注について文末に記しました。
●天下第一の楽地としての神崎
平安後期の高名な学者・大江匡房が著書「遊女記」のなかで『神崎』を上流の『江口』や対岸の『蟹島』とならぶ楽地と評しています。(以下抜粋)
摂津国には神崎や蟹島などの地があり、遊女の郭が連なるように建ち賑わいを見せている。
女たちは群 れをなして扁舟に棹さして旅舶の間を漕ぎ廻り、唱歌しながら客を求めている。
川口の水面には白波が花のように波立ってまるで絵のような美しさである。
川面には釣りを楽しむ翁の船や船客相手の酒食を商う小商人の船も多くみられ、それに旅舶や遊女達の扁船も混じって舳と艫が接するような混雑ぶりで、殆ど水面が見えないほどの繁昌ぶりである。
まさに天下第一の楽地といえよう。
●遊女五人の名・宮城について。
怪奇譚集『雨月物語』で有名な上田秋成が「神崎遊女の伝説」に取材した「宮木が塚」という遊女塚にまつわる物語が『春雨物語』に収められています。
主人公の遊・宮木が「神崎遊女塚」に名前が刻まれた「宮城」塚とはもちろん「遊女塚」のこと。
■「宮木が塚」あらすじ
ヒロインの美女、宮木は元々は高貴な家柄の娘ででしたが、庶民に身分を落とされ、さらに乳母にだまされて遊女にまで身を落としてしまいます。
さらに負のスパイラルは続き、将来を誓い合った恋人が毒殺されてしまうのですが、恋人を殺した男とそれとは知らずに枕を交わしてしまうのでした。
そのことを知った宮木は土佐に流れされる法然と出会い念仏を授けられます。
他人の悪意と負のスパイラルに翻弄され続けた宮木の運命はこのあと如何に・・・(結末は読んでのお楽しみ)
【現在の神崎新地】
尼崎の神崎(戸ノ内)には今でも男のロマンを掻き立てる『楽(新)地』が残っているのか?
天下一と謳われた華やかさも喧騒も夢の後。
悲哀が漂う街ですが、同時に懸命に生きていこうとする力強さのようなモノも感じます。
法然上人が流刑に会ったのは念仏を唱えるだけで極楽往生できるという浄土教が民衆の間で大ブレイクし過ぎたからだそうです。
そしてこれまで不浄な生き物なため往生できないと言われていた女人も往生できる。と説いたので、女性からも大歓迎されたことは想像に難くありません。
神崎の5人の遊女達もさぞかし法然上人を慕っていたことでしょう。
●神崎新地もう一つの遊女譚『モスリン橋の、袂に潜む』
モスリン橋。「尼崎市戸ノ内」から神崎川を跨いで「大阪市西淀川区加島」に架かる橋で、袂には「尼崎東警察署・モスリン橋交番」があります。
*1「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。(中略)後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記す。
*2如来院の古縁起によれば、同寺の起源は法然上人が遊女たちを教化した遺跡の堂舎・神崎釈迦堂であり、のちに尼崎城下の大物、さらには寺町に移転した。如来院ホームページより→遊女伝説について
尼崎市のホームページに『史跡・文化財散歩』というコーナーがあり、ブログ記事のお題「遊女塚」も史跡として紹介されています。
以下に全文引用します。
ここから〜
遊女塚は、法然上人と五人遊女の説話にゆかりの塚です。
神崎は、神崎川と淀川が奈良時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊が停泊する交通の要衝地となりました。次第に河口の港町として繁栄し、「天下第一の楽地」と呼ばれるようになります。
ここでは遊女たちが、今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわっていました。
この塚は、讃岐の国へ流される途中にこの地に立ち寄った法然 に、念仏を授けられて川に身を投げた、五人の遊女の亡骸を葬ったものと伝えられています。
塚の表面には「南無阿弥陀佛」の名号と、その両側には「阿弥陀佛 という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの春けき」と刻まれ、側面には元禄5年(1692)6月の年紀銘が刻まれ、裏面には遊女五人の名(吾妻・宮城・刈藻・ 小倉・大仁)があったといわれています。。
〜ここまで引用
遊女塚はオラが町「ケミカルタウン尼崎」らしい風景にとても馴染んでいました。
●法然上人と五人遊女の説話
浄土宗の方や法然上人ファンの間では大変有名な説法だそうで『法然上人行状絵図』という絵巻物(全四十八巻/国宝・知恩院蔵)の巻三十四にもこの場面が描かれています。
↑お坊さん(法然上人)が乗った船に近づく小舟に遊女が三人乗っているのが見えます。
■以下はネット上にある「法然上人伝記の現代語訳」を元にufodoujiが超意訳+独自解釈でまとめました。
法然上人が流罪となり船で流刑地に向かっていた時のこと、遊女を乗せた一艘の小舟が近づいてきて法然に訊ねました。
「前世の報いか色を売る身となりました。このように罪深い身ですがどうすれば地獄に堕ちず救われるでしょうか。」
法然は
「遊女を生業とするその罪はとても重く、報いも計り知れません。しかし他に生きるすべもなく、仏道を求めることも出来ないのであれば、熱心に念仏を唱えなさい。阿弥陀如来は弱く罪深い人を救うために誓願をたてられました。阿弥陀さまを信じ、卑屈にならず念仏を称えるのであれば、あなたは必ず救われます」
と答えると、遊女は涙を流して喜びました。
後日譚としては
「遊女は改心して仏門に入った」
「遊女は念仏を唱えながら入水したが、極楽浄土へ往生した」
とバリエーションがあります。
尼崎の『神崎の遊女塚説話』の原典は「秋里籬島編『摂津名所図会』巻6下 豊島郡・河辺郡(*1)」や「尼崎市の如来院の古縁起(*2)」などによるようです。
脚注について文末に記しました。
●天下第一の楽地としての神崎
平安後期の高名な学者・大江匡房が著書「遊女記」のなかで『神崎』を上流の『江口』や対岸の『蟹島』とならぶ楽地と評しています。(以下抜粋)
摂津国には神崎や蟹島などの地があり、遊女の郭が連なるように建ち賑わいを見せている。
女たちは群 れをなして扁舟に棹さして旅舶の間を漕ぎ廻り、唱歌しながら客を求めている。
川口の水面には白波が花のように波立ってまるで絵のような美しさである。
川面には釣りを楽しむ翁の船や船客相手の酒食を商う小商人の船も多くみられ、それに旅舶や遊女達の扁船も混じって舳と艫が接するような混雑ぶりで、殆ど水面が見えないほどの繁昌ぶりである。
まさに天下第一の楽地といえよう。
●遊女五人の名・宮城について。
怪奇譚集『雨月物語』で有名な上田秋成が「神崎遊女の伝説」に取材した「宮木が塚」という遊女塚にまつわる物語が『春雨物語』に収められています。
主人公の遊・宮木が「神崎遊女塚」に名前が刻まれた「宮城」塚とはもちろん「遊女塚」のこと。
■「宮木が塚」あらすじ
ヒロインの美女、宮木は元々は高貴な家柄の娘ででしたが、庶民に身分を落とされ、さらに乳母にだまされて遊女にまで身を落としてしまいます。
さらに負のスパイラルは続き、将来を誓い合った恋人が毒殺されてしまうのですが、恋人を殺した男とそれとは知らずに枕を交わしてしまうのでした。
そのことを知った宮木は土佐に流れされる法然と出会い念仏を授けられます。
他人の悪意と負のスパイラルに翻弄され続けた宮木の運命はこのあと如何に・・・(結末は読んでのお楽しみ)
【現在の神崎新地】
尼崎の神崎(戸ノ内)には今でも男のロマンを掻き立てる『楽(新)地』が残っているのか?
天下一と謳われた華やかさも喧騒も夢の後。
悲哀が漂う街ですが、同時に懸命に生きていこうとする力強さのようなモノも感じます。
法然上人が流刑に会ったのは念仏を唱えるだけで極楽往生できるという浄土教が民衆の間で大ブレイクし過ぎたからだそうです。
そしてこれまで不浄な生き物なため往生できないと言われていた女人も往生できる。と説いたので、女性からも大歓迎されたことは想像に難くありません。
神崎の5人の遊女達もさぞかし法然上人を慕っていたことでしょう。
●神崎新地もう一つの遊女譚『モスリン橋の、袂に潜む』
モスリン橋。「尼崎市戸ノ内」から神崎川を跨いで「大阪市西淀川区加島」に架かる橋で、袂には「尼崎東警察署・モスリン橋交番」があります。
*1「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。(中略)後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記す。
*2如来院の古縁起によれば、同寺の起源は法然上人が遊女たちを教化した遺跡の堂舎・神崎釈迦堂であり、のちに尼崎城下の大物、さらには寺町に移転した。如来院ホームページより→遊女伝説について