今昔物語
久米仙人。
大和国吉野郡(奈良県吉野郡)の竜門寺で安曇と共に仙術を修業し、やがて飛行の術を得て自在に空を飛ぶに至った。
吉野川の上空を飛んでいたとき、川で洗濯をしていた女の白い脛を見て神通力を失い、墜落してしまう。
この女を妻にし俗人として暮らしていたが、高市の新都造営の際、素性を監督官に知られ、材木を飛ばして運ぶように命じられる。
道場に籠もって食を断ち、七日七晩祈り続けると、八日目の朝に山から材木が工事現場に飛んできた。
これを聞いた天皇は久米に田三十町を与え、そこに建てたのが久米寺(奈良県橿原市)であるという。 (コトバンクより)
十八歳の頃、原付で自動車学校に通っていた時、歩道を歩く美人に見とれて車止めのポールに激突して転倒した。という武勇伝を持つ僕は、久米仙人に凄まじく親近感を覚えました。
僕にとってはまさに聖地の久米寺です。
そして我が心の師とさえ想い慕っていた久米仙人とも対面を果たしました。
薬師如来を本尊とする薄暗いお堂の内々陣の厨子の中で、奇妙な印を切るようなしぐさをしたな久米仙人像がいました。
あばら骨が浮き出た華奢な体躯、狂人を思わせるような焦点が定まらない視線、歯並びが悪くだらしなく半開きになった口元、伸び放題の髭。
もしかして久米仙人のミイラ?とおもうぐらいリアルで不気味なお姿にゾクっとしました。
そのお姿は正に仙人そのもので、女のフトモモに見とれるような隙なんて無さそうでした。
造形としては「露歯表現」や「本物の毛を植毛」と写実を極端に追求したかなり珍しい像です。
↑「久米仙人像(縁起のリーフレットより転載)」
久米寺本堂は鹿を従えた『寿老人』や金剛薩た形をした『荒神』と思われる像や不思議な像が沢山あって、かなりマジカルワールドです。
記事の冒頭で引用した説話にあるように、人の領域を越えてなお男のサガを引きずった、滑稽な久米仙人の愛されキャラは画題にも好まれたようです。
↑「久米仙人と洗濯美人図」
洗濯美人のM字開脚(汗)これなら墜落も仕方ないですね。
↑「落合久米仙人晒女」
題名が晒し女。露出狂ってことなんでしょうか?
↑「久米仙人堕落之図」
洗濯するような格好じゃない気がします。
↑「久米仙人と洗濯美人」
遠近感があって空の高さが表現されてます。長襦袢の赤も効果的。
↑「久米仙人落水図」
画面の上部に空間をとって落下を表現してるトコと美人を後ろ姿で描いてるトコがナイスでお気に入りです。
↑なかなか美人やとおもいます。仙人の墜落させた女性にも男の視線は注がれるのです。
このようにほとんどの絵が久米仙人が落下する場面を描いているのですが、曾我蕭白は「久米仙人が還俗し洗濯美人と仲睦まじく暮らしている」説話の後半の場面を描いていて面白いとおもいます。
↑曾我蕭白筆「久米仙人図屏風」
久米仙人墜落説話の原典は『今昔物語』巻第十一第二十四「久米の仙人始めて久米寺を造る語」です。
大和国吉野郡(奈良県吉野郡)の竜門寺で安曇と共に仙術を修業し、やがて飛行の術を得て自在に空を飛ぶに至った。
吉野川の上空を飛んでいたとき、川で洗濯をしていた女の白い脛を見て神通力を失い、墜落してしまう。
この女を妻にし俗人として暮らしていたが、高市の新都造営の際、素性を監督官に知られ、材木を飛ばして運ぶように命じられる。
道場に籠もって食を断ち、七日七晩祈り続けると、八日目の朝に山から材木が工事現場に飛んできた。
これを聞いた天皇は久米に田三十町を与え、そこに建てたのが久米寺(奈良県橿原市)であるという。 (コトバンクより)
十八歳の頃、原付で自動車学校に通っていた時、歩道を歩く美人に見とれて車止めのポールに激突して転倒した。という武勇伝を持つ僕は、久米仙人に凄まじく親近感を覚えました。
僕にとってはまさに聖地の久米寺です。
そして我が心の師とさえ想い慕っていた久米仙人とも対面を果たしました。
薬師如来を本尊とする薄暗いお堂の内々陣の厨子の中で、奇妙な印を切るようなしぐさをしたな久米仙人像がいました。
あばら骨が浮き出た華奢な体躯、狂人を思わせるような焦点が定まらない視線、歯並びが悪くだらしなく半開きになった口元、伸び放題の髭。
もしかして久米仙人のミイラ?とおもうぐらいリアルで不気味なお姿にゾクっとしました。
そのお姿は正に仙人そのもので、女のフトモモに見とれるような隙なんて無さそうでした。
造形としては「露歯表現」や「本物の毛を植毛」と写実を極端に追求したかなり珍しい像です。
↑「久米仙人像(縁起のリーフレットより転載)」
久米寺本堂は鹿を従えた『寿老人』や金剛薩た形をした『荒神』と思われる像や不思議な像が沢山あって、かなりマジカルワールドです。
記事の冒頭で引用した説話にあるように、人の領域を越えてなお男のサガを引きずった、滑稽な久米仙人の愛されキャラは画題にも好まれたようです。
↑「久米仙人と洗濯美人図」
洗濯美人のM字開脚(汗)これなら墜落も仕方ないですね。
↑「落合久米仙人晒女」
題名が晒し女。露出狂ってことなんでしょうか?
↑「久米仙人堕落之図」
洗濯するような格好じゃない気がします。
↑「久米仙人と洗濯美人」
遠近感があって空の高さが表現されてます。長襦袢の赤も効果的。
↑「久米仙人落水図」
画面の上部に空間をとって落下を表現してるトコと美人を後ろ姿で描いてるトコがナイスでお気に入りです。
↑なかなか美人やとおもいます。仙人の墜落させた女性にも男の視線は注がれるのです。
このようにほとんどの絵が久米仙人が落下する場面を描いているのですが、曾我蕭白は「久米仙人が還俗し洗濯美人と仲睦まじく暮らしている」説話の後半の場面を描いていて面白いとおもいます。
↑曾我蕭白筆「久米仙人図屏風」
久米仙人墜落説話の原典は『今昔物語』巻第十一第二十四「久米の仙人始めて久米寺を造る語」です。
平安時代後期に小野篁(おののたかむら)という朝廷の役人がおり、参議という役職を勤めた。
小野篁は遣隋使として有名な小野妹子の子孫にあたり、生没802〜852年の歴史上実在の人物。
篁は皇太子の家庭教師も務めた学者であり、百人一首にも選出される歌人でもあり、身長が180センチを超える大柄の武人でもあったので何でも出来るスーパースターのような存在として尊敬され、恐れられてもいた。
【小野篁の伝説-1】
篁はある夜、死んだ母が地獄で苦しんでいる夢を見ました。
篁はとても心配になり、霊感を働かせながら歩いていると、東山の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に冥界(めいかい)に通じている井戸を見つけました。
そして、その井戸から冥界に行くと、閻魔大王に願い出て、地獄で苦しむ母親を極楽浄土へと救い出しました。
この事がきっかけで閻魔大王と親しくなった篁はそれからというもの、昼間は朝廷で働き、夜になると井戸を通って冥界に行き、冥界の裁判所で閻魔大王の補佐として弁護役を勤めたといいます。
834年、小野篁は遣唐副使に任ぜられた。
篁は唐を目指して出航したが船は2度も難破してしまう。
3度目の出航の時、遣唐大使に自分の船を取り上げられ大使の船とされた事を不満に思った篁は仮病を使って唐に行くのを拒否した。
この事が天皇の怒りを買い、勅命に背いた罰として絞首刑にされようとしたいたとこを友人の藤原良相(ふじわらのよしみ)が懸命にかばって、隠岐への島流しの罪へ刑を軽くしてもらい、篁は命を救われた。
※この隠岐の島流しの時に篁が詠んだ歌が百人一首に選ばれている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟(11番)
島流しから2年後、篁は罪を許され、帰京し参議として朝廷に復職した。
【小野篁の伝説-2】
篁の命を救った友人の藤原良相は右大臣に出世していましたが、ある日、重い病にかかり死んでしまいました。
良相は冥界で閻魔大王の前に引き出され、生前に犯した罪をあらいざらい並べられました。
良相が
「俺もいよいよ地獄の責め苦を受けるのか」
と、恐れ辺りを伺うと、閻魔大王のそばに見慣れた顔がありました。
良相が
「あれは篁ではないか。」
と、不思議に思っていると篁は閻魔大王に対し
「この日本の大臣は心うるわしく、人のためになる方です。今度ばかりは私に免じて許してください。」
と、命の恩人で友人の良相の弁護を始めました。
閻魔大王は
「難しい事だか他ならぬお前の頼みとあっては仕方あるまい」
と、言って良相を帰らせるように命令したかとおもうと、良相は「はっ」と息を吹き返し、この世に生き返り、病もたちまちに治ってしまいました。
良相は冥界での出来事は夢だとおもい誰にも話しませんでしたが、朝廷に出仕していたある時、篁と二人きりになる機会がありました。
良相は思い切って篁に聞いてみました。
「この前の冥界の一件を忘れられません。あれは一体どういうことですか。」
篁は微笑みながら
「以前、命を救ってもらった恩に報いたまでです。このことは誰にも言わないでください。」
と、昼間は朝廷に仕え、夜は閻魔大王に仕えていることを良相に教えました。
しかし、この篁の話はたちまち世間に広まってしまったといいます。
小野篁が冥界に行く際に通ったという伝説の井戸が今も京都の六道珍皇寺に残っている。
篁は母親の供養のため六道珍皇寺に私財を寄進したので同寺に祀られ、また境内にある閻魔堂には篁作とされる閻魔大王座像(平安前期)と篁立像(江戸期)が並んで安置されている。
智慧光院にも小野篁作と言われる六臂の地蔵像が祀られている。
※篁が母が地獄で苦しむ夢を見たという説話は、丁度、罪を許され島流しから帰京した頃の事だと思われる。
※小野小町の祖父という説もあるが確証はない。
以下、当ブログの六道・地獄に関する記事へのリンクです。
→人は死んだらどうなる?長岳寺
→全興寺:地獄は地域コミュニティ
→子育て幽霊飴(六道まいり)
→六道珍皇寺の小野箼と閻魔像
→説話/伝説 小野篁(おののたかむら)
→まんが日本昔ばなし「子育て幽霊』
→京都地蔵盆:智恵光院・六臂地蔵
→京都地蔵盆引接寺・小野篁作閻魔王像
→六観音が一堂に会する千本釈迦堂
→【小満】第二十三候:紅花栄(べにはなさく)
小野篁は遣隋使として有名な小野妹子の子孫にあたり、生没802〜852年の歴史上実在の人物。
篁は皇太子の家庭教師も務めた学者であり、百人一首にも選出される歌人でもあり、身長が180センチを超える大柄の武人でもあったので何でも出来るスーパースターのような存在として尊敬され、恐れられてもいた。
【小野篁の伝説-1】
篁はある夜、死んだ母が地獄で苦しんでいる夢を見ました。
篁はとても心配になり、霊感を働かせながら歩いていると、東山の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に冥界(めいかい)に通じている井戸を見つけました。
そして、その井戸から冥界に行くと、閻魔大王に願い出て、地獄で苦しむ母親を極楽浄土へと救い出しました。
この事がきっかけで閻魔大王と親しくなった篁はそれからというもの、昼間は朝廷で働き、夜になると井戸を通って冥界に行き、冥界の裁判所で閻魔大王の補佐として弁護役を勤めたといいます。
834年、小野篁は遣唐副使に任ぜられた。
篁は唐を目指して出航したが船は2度も難破してしまう。
3度目の出航の時、遣唐大使に自分の船を取り上げられ大使の船とされた事を不満に思った篁は仮病を使って唐に行くのを拒否した。
この事が天皇の怒りを買い、勅命に背いた罰として絞首刑にされようとしたいたとこを友人の藤原良相(ふじわらのよしみ)が懸命にかばって、隠岐への島流しの罪へ刑を軽くしてもらい、篁は命を救われた。
※この隠岐の島流しの時に篁が詠んだ歌が百人一首に選ばれている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海人の釣舟(11番)
島流しから2年後、篁は罪を許され、帰京し参議として朝廷に復職した。
【小野篁の伝説-2】
篁の命を救った友人の藤原良相は右大臣に出世していましたが、ある日、重い病にかかり死んでしまいました。
良相は冥界で閻魔大王の前に引き出され、生前に犯した罪をあらいざらい並べられました。
良相が
「俺もいよいよ地獄の責め苦を受けるのか」
と、恐れ辺りを伺うと、閻魔大王のそばに見慣れた顔がありました。
良相が
「あれは篁ではないか。」
と、不思議に思っていると篁は閻魔大王に対し
「この日本の大臣は心うるわしく、人のためになる方です。今度ばかりは私に免じて許してください。」
と、命の恩人で友人の良相の弁護を始めました。
閻魔大王は
「難しい事だか他ならぬお前の頼みとあっては仕方あるまい」
と、言って良相を帰らせるように命令したかとおもうと、良相は「はっ」と息を吹き返し、この世に生き返り、病もたちまちに治ってしまいました。
良相は冥界での出来事は夢だとおもい誰にも話しませんでしたが、朝廷に出仕していたある時、篁と二人きりになる機会がありました。
良相は思い切って篁に聞いてみました。
「この前の冥界の一件を忘れられません。あれは一体どういうことですか。」
篁は微笑みながら
「以前、命を救ってもらった恩に報いたまでです。このことは誰にも言わないでください。」
と、昼間は朝廷に仕え、夜は閻魔大王に仕えていることを良相に教えました。
しかし、この篁の話はたちまち世間に広まってしまったといいます。
小野篁が冥界に行く際に通ったという伝説の井戸が今も京都の六道珍皇寺に残っている。
篁は母親の供養のため六道珍皇寺に私財を寄進したので同寺に祀られ、また境内にある閻魔堂には篁作とされる閻魔大王座像(平安前期)と篁立像(江戸期)が並んで安置されている。
智慧光院にも小野篁作と言われる六臂の地蔵像が祀られている。
※篁が母が地獄で苦しむ夢を見たという説話は、丁度、罪を許され島流しから帰京した頃の事だと思われる。
※小野小町の祖父という説もあるが確証はない。
以下、当ブログの六道・地獄に関する記事へのリンクです。
→人は死んだらどうなる?長岳寺
→全興寺:地獄は地域コミュニティ
→子育て幽霊飴(六道まいり)
→六道珍皇寺の小野箼と閻魔像
→説話/伝説 小野篁(おののたかむら)
→まんが日本昔ばなし「子育て幽霊』
→京都地蔵盆:智恵光院・六臂地蔵
→京都地蔵盆引接寺・小野篁作閻魔王像
→六観音が一堂に会する千本釈迦堂
→【小満】第二十三候:紅花栄(べにはなさく)
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