見仏日:2014年6月12日
広済寺は「曾根崎心中」で有名な浄瑠璃の脚本家、近松門左衛門(今で言うトコの野島伸司?)のお墓があり、尼崎市内において数少ない『国指定の史跡』となっていてオラが町(ケミカルタウン尼崎)の誇りでもあります。
曾根崎心中がどんな話か全く知らないので少し調べてみたら、これがなかなかおもしろそう、せっかく近松門左衛門に縁のある尼崎に棲んでいるのんだし、一度ぐらいは(ダイジェスト版かなんかで)観てみたいもんです。
曾根崎心中の冒頭の一節で大阪に「太融寺」を起点とする「大坂三十三観音札所」という霊場めぐりがあったのも初めて知りました。
江戸時代の大阪庶民にとって西国三十三所の簡易版として親しまれた巡礼だたんでしょうけど、今は廃寺となっているお寺もあり、大坂三十三観音札所巡りもすっかり廃れてしまっているようですが復興の動きもありました。
僕も今度、挑戦してみようかな?
Wikipediaであらすじの解説では
『西国三十三所巡礼を終えたお初は、醤油屋の手代・徳兵衛と最後の観音巡礼の地「生玉の社」で偶然の再会をする。』と、なっていましたが、西国三十三所というのは大坂三十三観音札所のことなのでは?
関東にも坂東三十三所という札所巡りがあるそうですが、こちらは今も人気なんでしょうか?
そうそう、話を広済寺に戻します。
↑カラスが本堂をお参りしてました。
その広済寺は『日蓮宗』のお寺で、なおかつ『妙見堂』を持ちます。
日蓮宗で祀られる妙見菩薩は甲冑を身に付けて剣を構えピースサインの印を結ぶ「大将軍」に似た姿ですが、広済寺で祀られている秘仏「妙見大菩薩」は笏を持つ俗体の神像形です。
幸運なことに妙見堂内に昇殿させていただきましたが、御前立ちの像は日蓮宗式の「妙見菩薩」でした。
写真の転載厳禁とありましたので→『広済寺:妙見菩薩像』へのリンクです。
牛頭天王と諏訪大明神が脇を固めてるのも珍しいですね。
星の神様と方位の神様が一緒に祀られています。
※このブログ内の関連記事→『妙見菩薩と大将軍』
広済寺は典型的に神仏分離をさせられたお寺で、真っすぐに境界線で区切られたような隣の敷地が『久々知・須佐男神社』となっていました。
この『久々知須佐男神社』は神仏分離以前は『久々知妙見堂』だったようです。
久々知妙見堂の縁起として『天徳元年(957)多田満仲が矢文を放ち、それがこの地の石に当たり、北辰星(妙見宮)を祀った』という話が伝わっており、境内には『矢文石』が祀られています。
↑矢文石
須佐男神社は祭神が当然のように須佐之男命とされていますが、実は明治の廃仏毀釈以前はほぼ『牛頭天王』を祭神として祀っていました(祇園祭で有名な京都・八坂神社もです)
久々知妙見宮は神仏分離以降、「妙見大菩薩と牛頭天王と諏訪大明神」を広済寺に移しているので、久々知須佐男神社と改号された後は素性不明な祭神が祀られているそうです。
広済寺は「曾根崎心中」で有名な浄瑠璃の脚本家、近松門左衛門(今で言うトコの野島伸司?)のお墓があり、尼崎市内において数少ない『国指定の史跡』となっていてオラが町(ケミカルタウン尼崎)の誇りでもあります。
曾根崎心中がどんな話か全く知らないので少し調べてみたら、これがなかなかおもしろそう、せっかく近松門左衛門に縁のある尼崎に棲んでいるのんだし、一度ぐらいは(ダイジェスト版かなんかで)観てみたいもんです。
曾根崎心中の冒頭の一節で大阪に「太融寺」を起点とする「大坂三十三観音札所」という霊場めぐりがあったのも初めて知りました。
江戸時代の大阪庶民にとって西国三十三所の簡易版として親しまれた巡礼だたんでしょうけど、今は廃寺となっているお寺もあり、大坂三十三観音札所巡りもすっかり廃れてしまっているようですが復興の動きもありました。
僕も今度、挑戦してみようかな?
Wikipediaであらすじの解説では
『西国三十三所巡礼を終えたお初は、醤油屋の手代・徳兵衛と最後の観音巡礼の地「生玉の社」で偶然の再会をする。』と、なっていましたが、西国三十三所というのは大坂三十三観音札所のことなのでは?
関東にも坂東三十三所という札所巡りがあるそうですが、こちらは今も人気なんでしょうか?
そうそう、話を広済寺に戻します。
↑カラスが本堂をお参りしてました。
その広済寺は『日蓮宗』のお寺で、なおかつ『妙見堂』を持ちます。
日蓮宗で祀られる妙見菩薩は甲冑を身に付けて剣を構えピースサインの印を結ぶ「大将軍」に似た姿ですが、広済寺で祀られている秘仏「妙見大菩薩」は笏を持つ俗体の神像形です。
幸運なことに妙見堂内に昇殿させていただきましたが、御前立ちの像は日蓮宗式の「妙見菩薩」でした。
写真の転載厳禁とありましたので→『広済寺:妙見菩薩像』へのリンクです。
牛頭天王と諏訪大明神が脇を固めてるのも珍しいですね。
星の神様と方位の神様が一緒に祀られています。
※このブログ内の関連記事→『妙見菩薩と大将軍』
広済寺は典型的に神仏分離をさせられたお寺で、真っすぐに境界線で区切られたような隣の敷地が『久々知・須佐男神社』となっていました。
この『久々知須佐男神社』は神仏分離以前は『久々知妙見堂』だったようです。
久々知妙見堂の縁起として『天徳元年(957)多田満仲が矢文を放ち、それがこの地の石に当たり、北辰星(妙見宮)を祀った』という話が伝わっており、境内には『矢文石』が祀られています。
↑矢文石
須佐男神社は祭神が当然のように須佐之男命とされていますが、実は明治の廃仏毀釈以前はほぼ『牛頭天王』を祭神として祀っていました(祇園祭で有名な京都・八坂神社もです)
久々知妙見宮は神仏分離以降、「妙見大菩薩と牛頭天王と諏訪大明神」を広済寺に移しているので、久々知須佐男神社と改号された後は素性不明な祭神が祀られているそうです。