訪問日:2014年5月17日
幕末、長州藩を中心とする尊攘派と会津藩・薩摩藩などの公武合体派が戦った『禁門の変/蛤御門の変』がありました。
長州藩は一日で敗北。兵の多くは西国街道を敗走し、海路長州へと引き揚げていきました。
尼崎藩は長州藩兵を捕縛するため伊丹に派兵して西国街道を押さえますが、多くの長州藩兵はすり抜けました。
しかし運悪く捕縛された長州藩兵もいました。
山本文之助もそんな運の悪い長州藩兵の一人で、7月20日尼崎城下への北東の入口である大物北ノ口御門で捕えられ自害して果てました。
文之助は死に際に
「わずか4万石ほどの大名に捕まったのは『残念』で口惜しい。もし口惜しいことがあれば一つだけ願いを叶えてやろう」
と書き残して切腹したそうです。
文之助の死後、墓碑が建てられ供養され、人々が参詣するようになると、どんな病気でも「口惜しい」と願えば全快すると評判になりました。
そして文之助の墓碑への参詣はブームとなりました。
余りの参詣人の多さに尼崎藩は垣を張り巡らせ、役人が参詣を制止しても、民衆は墓所を目指したそうです。
そしていつの頃からか文之助は『残念様』と呼ばれるようになりました。とさ。
この異常な民衆の高揚に危機感を持ったのでしょうか、元治2年5月17日、大坂町奉行所が参詣を一切禁止したと記されています。
〜以上、「尼崎市立地域研究史料館HP」と「南部再生」より抜粋、加筆再編。
現在も参詣する人が後を断たず。というような賑わいはありませんが、病気平癒(なかでも歯痛)、学力向上にご利益があるとされ、墓地の管理所でお守りも販売されています。
そんなに歴史の古い神様ではありませんが、『残念さん』というネーミングがなんとも尼っぽくていいですね。
さらに「オラが町・尼!」を主張する『尼崎市史跡』の刺繍が入ったお守りも素敵です。
自分のご利益用としては勿論、阪神間で残念な町尼崎のちょっと変わったお土産にも是非!
『残念さんのお墓』は住宅街の普通の墓所の中にあります。一般のお墓参りの方もいらっしゃいますのでマナーを守って参詣しましょう。
場所:兵庫県尼崎市杭瀬南新町4-13[杭瀬東墓地]
阪神大物駅より徒歩5分
幕末、長州藩を中心とする尊攘派と会津藩・薩摩藩などの公武合体派が戦った『禁門の変/蛤御門の変』がありました。
長州藩は一日で敗北。兵の多くは西国街道を敗走し、海路長州へと引き揚げていきました。
尼崎藩は長州藩兵を捕縛するため伊丹に派兵して西国街道を押さえますが、多くの長州藩兵はすり抜けました。
しかし運悪く捕縛された長州藩兵もいました。
山本文之助もそんな運の悪い長州藩兵の一人で、7月20日尼崎城下への北東の入口である大物北ノ口御門で捕えられ自害して果てました。
文之助は死に際に
「わずか4万石ほどの大名に捕まったのは『残念』で口惜しい。もし口惜しいことがあれば一つだけ願いを叶えてやろう」
と書き残して切腹したそうです。
文之助の死後、墓碑が建てられ供養され、人々が参詣するようになると、どんな病気でも「口惜しい」と願えば全快すると評判になりました。
そして文之助の墓碑への参詣はブームとなりました。
余りの参詣人の多さに尼崎藩は垣を張り巡らせ、役人が参詣を制止しても、民衆は墓所を目指したそうです。
そしていつの頃からか文之助は『残念様』と呼ばれるようになりました。とさ。
この異常な民衆の高揚に危機感を持ったのでしょうか、元治2年5月17日、大坂町奉行所が参詣を一切禁止したと記されています。
〜以上、「尼崎市立地域研究史料館HP」と「南部再生」より抜粋、加筆再編。
現在も参詣する人が後を断たず。というような賑わいはありませんが、病気平癒(なかでも歯痛)、学力向上にご利益があるとされ、墓地の管理所でお守りも販売されています。
そんなに歴史の古い神様ではありませんが、『残念さん』というネーミングがなんとも尼っぽくていいですね。
さらに「オラが町・尼!」を主張する『尼崎市史跡』の刺繍が入ったお守りも素敵です。
自分のご利益用としては勿論、阪神間で残念な町尼崎のちょっと変わったお土産にも是非!
『残念さんのお墓』は住宅街の普通の墓所の中にあります。一般のお墓参りの方もいらっしゃいますのでマナーを守って参詣しましょう。
場所:兵庫県尼崎市杭瀬南新町4-13[杭瀬東墓地]
阪神大物駅より徒歩5分